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第3話 ならば俺がもらう・前編

Author: 八月 猫
last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-21 16:23:56

 男の視線は冷たかった。

 私を値踏みしているようには見えない。ただ長い間探していたものを確かめるように、まばたきもせず見つめている。

 黒いスーツは仕立てのよさが一目で分かった。背が高く、肩も広い。整った顔立ちなのに近寄りがたいのは、表情に愛想というものが一切ないからだろう。

 今の私には知らない人の機嫌まで考える余裕はなかった。

 目を伏せて通り過ぎようとした時、背後で扉が開く。

「小春、待って」

 直哉が追ってきた。

「今の状態で一人になるのはよくない。車を用意するから、今日は家まで送るよ」

「大丈夫。自分で帰れる」

「そういう問題じゃないだろう。君は突然のことで混乱している。今すぐ金銭的な援助まで断る必要はないよ」

「今決めても、明日決めても同じだから」

「感情が落ち着けば考えも変わる。七年一緒にいた僕には分かるよ」

「分かっていたら、こんな形にはしなかったと思う」

 直哉の眉がわずかに寄った。

「僕だって何も考えずに決めたわけじゃない。事前に話したとしても、結論は変わらなかった。なら、不確かな段階で君を悩ませる必要はなかっただろう」

「傷つけたくない人間の仕事を辞めさせておいて、別の女との結婚を決めるのか」

 低い声が廊下へ落ちた。

 私も直哉も黒いスーツの男を見る。

 直哉の顔から初めて余裕が消えた。

「……皇さん」

 男は直哉へ視線を移した。

「御影直哉。お前の説明は最初から最後まで自分に都合がいい」

「これは私たちの問題です。部外者に口を挟まれる理由はありません」

「人目のある廊下で女を追い回し、自分の正当性を聞かせておいて部外者も何もない。聞かれたくなければ、先に話を終わらせておけ」

 直哉は眼鏡の位置を直した。

「事情をご存じない方に判断されることではありません。僕は彼女の生活が不安定にならないよう、必要な補償を提示しています」

「補償を提示すれば誠実だとでも?」

「少なくとも責任を放棄するつもりはありません」

「違うな。お前がしているのは責任の処理だ」

 男は一歩も動かないまま言葉を重ねた。

「お前は婚約者へ結婚後の退職を求めた。その裏で別の女との婚姻を検討し、話がまとまるまで事実を伏せた。自分だけ退路を確保した後で婚約を解消し、相手が失った仕事と時間を金で精算しようとしている」

「将来を考えれば合理的な選択です。感情だけで結婚を決める方が無責任でしょう」

「合理的という言葉で卑怯を飾るな」

 空気が鋭く張りつめた。

「お前が紗英という女を選ぶこと自体は自由だ。だが、その選択による損失を一方的にこの女へ負わせた時点で、お前の行為は合理的ではない。ただ自分にとって有利なだけだ。相手の選択肢を奪っておきながら、傷の少ない方法を選んだなどと語るな」

 直哉は口を開きかけた。

 けれど男は逃がさない。

「事前に話しても結論は変わらなかったと言ったな。結論を変える気がない人間が行うのは話し合いではない。通告だ。お前は彼女へ相談する責任すら果たしていない」

「……あなたには関係がない」

「今まではな」

 男の目が私へ戻った。

 冷たいはずの視線が、なぜか一瞬だけ和らいだ。

「婚約は解消された。それで間違いないな?」

 直哉が答えるより先に、私はうなずいた。

「はい」

「ならば障害はない」

 男は当然のように告げた。

「小春。俺と結婚しろ」

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